想い

ひとりでも多くの女性が 逆境に負けず、その人らしく 自分らしい華を咲かせて
幸せに生きていけることを願って活動しています。

長年、行政のひとり親支援機関で離婚前後の女性の自立のご相談をお受けしてきました。
その中で気が付いたのは、相談者の目の前の就職を決めるだけでは幸福感を持って生きることは難しく、根本的な「自立」の解決ではないことでした。
そして心理カウンセリングやコーチングを取り入れる中、その危惧は大きく軽減され相談者の方の深い喜びと自立に結びついていき、それは独自の相談スタイルを創りあげることになりました。

しかし行政機関での業務は、仕事面において「就職」の件数実績を作ることが最優先され、その枠のなかにいることに限界を感じました。

心とキャリアの専門家であった私は「心とキャリアは両輪」、そして「長期的に有効な、幸せに生きるためのお手伝いがしたい」との想いから、行政ひとり親家庭自立・支援センター長の職を辞して独立。

幸せに生きることや愛すること、働くことに様々な制限や圧力を受け、生きることに困難を抱え、がんばる女性が、自分自身の個性を輝かせ、自分の華を咲かせて幸せに生きる、そんなお手伝いをさせていただきたいと思っています。

あなたは、今直面している困難がなかなか解決せずに限界を感じ、 行き詰っていて、心はすっかり疲れ、傷んでしまっているかもしれません。

ほんの少し 想像してみていただけますか?

スケートリンクという人生に、小石があちこち 落ちたら、あなたは小石をよけるためにバランスを崩し、時につまづき、 転倒してしまうかもしれません。 そして思いのままに滑るという喜びを味わえずに つまずきや大けがを伴う人生になるかもしれないのです。

もしも小石につまづく前に、そこにあるぞと気づくことができ、自分で取り除くことができたなら、あなたはどんなにのびのびと 思いのままに滑ることができるでしょうか?

わたしは、あなたの人生に置かれた小石をあなた自身が一つ一つ取り除き、 自由にかろやかに、楽しんで滑ることができるようにお手伝いします。

あなたの人生が笑顔と希望と喜びにあふれたものでありますように。

華心Darya 名前の由来

華こころ

華のような心。
花はそこに在るだけで、人々の心を和ませ、和らげ、癒し、本来の自分に戻るきっかけを与えてくれます。そして、たとえ踏まれても、冷たい風にさらされても、息を吹き返す、そんな姿は生きる勇気や智慧を与えてくれます。

幸せのセレモニーや、お祝いのセレモニー、別れのセレモニーなどでお花を贈るように、花があると心がパッと華やぐ、そんな瞬間を、あなたと生み出したい。
そんな華のような心、それを華心と呼んでいます。

Daryaはペルシャ語で「海」

Darya(ダリヤ)とはペルシャ語で「海」という意味です。

海は、生きとし生けるものすべてを育む生命の源。そして満ち足り引いたり、穏やかな時もあれば荒れ狂うときもあります。私は、そんな海をまるで心のようだと感じます。

もしかしたら、海は地球の心の状態を表しているかも。

私たちの心をそんな海に例え、広い心、おおらかな心、すべてを育む心、包み込む心、穏やかで人が自然に素直になれる、そんな時間をご提供したいという願いを込めて。

天国にいる娘との約束

Daryaは亡くなった娘の名前でもあります。
医療事情の悪い外国での出産。幼いわが子を亡くした慟哭が、わたしがこの道に進むきっかけをくれました。Daryaと二人三脚で、困っている方のために自分というありったけを使い切って生きる、それが『天国の娘との約束』です。

プロフィール

津守梨々子(つもりりりこ)

◆国際結婚をし、現地イランで出産するが最初の子を9日間で亡くす。その後、2子に恵まれイラン生活を充実させるも、徐々に夫婦関係に悩むようになり精神的につらい状況に。子どもを連れて帰国後、離婚を決意。その1年後離婚成立。シングルマザーとしての生活をスタートするが、なかなか思うように仕事が安定せず職を転々とする。その後、行政ひとり親自立支援の支援員として働き始め、天職だと思える実感を得られる一方で職場の人間関係、セクハラ、パワハラなど逆境に次々に遭う。その困難を自ら学んだスキルで克服し、また、同じように困難の中にあるクライアントにそれらのトレーニングを取り入れたセッションに心血を注ぐ中、多くの相談者が困難を乗り越え、自分に自信を持ち、着実に収入アップを果たし、人生を幸せに変えていくケースが続出。自身はのちにセンター長となり、ひとり親支援の新制度の構築に貢献、その後独立。

約4,000人の女性のセッション実績。オリジナルメソッドと自身の困難な人生を乗り越えながら確立された独自の相談スタイルで、女性の負けない人生、幸せな未来のために日々、邁進中。

◆職歴:財閥系総合商社の海外支社スーパーバイザー、ビルメンテナンス会社管理職、営業職、看護助手、電話オペレーター、事務職、販売職等を経験した。お客様と関わる仕事や管理・人材の仕事を通して心理カウンセリングやキャリアコンサルティングへの興味が育まれる。12年携わったひとり親支援の仕事で、相談の仕事を天職と確信。この道で生きていく決心を固める。
自分のバラバラなキャリアに行き詰まりを感じていた過去から、カウンセリングで自分育てが進むことで、自分のキャリアに誇りが持てるようになり、歩んできたキャリアすべてに感謝している。

◆保有資格: NLPトレーナー/ 心理カウンセラー/2級キャリアコンサルティング技能士/ 産業カウンセラー

◆活動:国際ソロプチミスト「夢を生きる」教育・訓練賞を受賞。困難な女性が人生をしあわせに変えるサポートに取り組み中/地元の子育て応援プロジェクト参画、子育てママの子育て心理学講座やメンタルアップフラメンコ講座開催中

About Me

しあわせに生きることを真剣に考える職業を志事にした わたしの原点

【その1】助けてもらうばかりの人生だったから、誰かを助けられる自分になりたかった

20~30歳代のわたしの人生は、助けられるばかりの人生でした。

命を助けてくれた女性

「お入りなさい」

静かにそう言って、その方はドアをそっと開けて、わたしを部屋に入れてくれました。見ず知らずのその女性が助けてくれなければ、わたしはその時の彼との別れ話で、マンションの共用廊下で命を落としていたかもしれません。

絶望の中にいるわたしにその方はこう言いました。
「私も元夫に殴られて耳が聞こえなくなってしまったの。だから、あなたのこと、放っておけなかったのよ」と。もうはるか昔のことですが、今でも鮮明に覚えています。

今は消息も分かりませんから会うこともないでしょう。でも、わたしの中では、今も忘れ得ない命の恩人です。

子どもを亡くしたときに救われた女性の一言

イランで出産した最初の子どもを9日後に亡くしたとき、わたしは表現できない深い悲しみの底にいました。元夫のイラン人家族は、すぐ亡くなってしまったのだからお墓も役所に届けもいらないよ、と言いました。きっと、何も残さないほうが、わたしがつらい記憶を忘れることができて よいだろう、という家族の思いやりからだったと思います。
でもわたしは、この子が産まれて確かに存在したことを、無かったことには絶対にしたくありませんでした。家族の反対はありましたが、元夫に頼み込み出生届と死亡届を日本大使館に提出しに行った時のこと、対応してくれた日本人女性職員の方がこう言ってくれたのです。

「あなた、いいお母さんね」と。

そして、こう続けて言ってくれました。
「まだ出生届も出していないのだから、このまま何もしなくていいや、という人はいっぱいいるの。でもあなたは、頑張ったのね。お辛かったでしょう。」

その瞬間、それまで張り詰めていた思いが一気に溶けだすように溢れ出し、涙が溢れました。その優しい言葉に救われました。

異国の大地のお母さん

30年以上前にイランに嫁ぎ、この大地で生き抜いてきた、親子ほども歳の違う大先輩のその方は、わたしたち夫婦の関係がうまくいっておらず、わたしが苦しいイラン生活を送っていることをいつも気にかけてくれました。
本当によくわたしの話を聴き相談にのってくれました。時には母のように、わたしの至らないところを諭しながらお話しくださり、時には良いところを褒めてくださり、わたしに素敵な世界を見せてくださいました。

何より、その方の歩んできた人生そのものが、女性として本当に尊く、その方の前にいると不思議と素直になれ、勇気づけられました。

わたしがイラン生活で自暴自棄にならず自分を保っていられた、本当に助けていただいた恩人です。

 

助けられてばかりの人生だったからこそ、誰かを助けられる自分になりたかった

他にも、わたしは本当にたくさんの方に助けられながら、自分の人生を歩んできました。わたしを助けてくれた、この方たちに恩を返すことはもうきっと出来ません。
でも、このいただいたご恩を、自分の存在を全部使って誰かに送ることは出来るのではないかと思っています。いただくばかりの人生から、それを困っている誰かにお送りすることのできる人生にしたいと、心の底から思ってきたことが、わたしの原動力なのです。

【その2】子どもたちに背中を見せて生きたい。

見知らぬ土地でも自分らしく生きたい

元夫の国でもあるイランに永住を決めて家族4人で再びイランの地を踏んだ時、わたしは強く思うことがありました。それは、

わたしは、「ママはパパがいないと何にもできないの」という母親になりたくない。この地でしっかりと自分の道を切り開いていきたい!
そして、「ママは異国の土地でも楽しく力強く自分の道を切り開いてきたよ」と子どもたちに背中を見せて生きたい。そんな母親でいたい。

イランという国は、イスラム教徒の国。女性の地位がまだまだ低いこともあり不自由であったりはしましたが、少なくともイラン人女性ができることぐらいは、できるようになりたいと思っていました。イラン人の友達を作る、子どもたちを連れて買い物に行く、公園に遊びに連れていく、銀行口座をもってお金の管理をする、夫の付き添い無しで行動する、など、どれも日本では当たり前にしていることです。

わたしはイランで積極的に行動し、イラン人女性の友人も増え、行動範囲は大きくなり、わたしにとってイラン生活は可能性の塊、という希望に満ちた世界になっていきました。

想いが世界を創っていく

そういう前向きな気持ちで生活をしていると運を引き寄せるのでしょうか?

翌年には、飛び込み営業をかけたジムスタジオで得意のフラメンコを教え始め、また、日本3大商社のひとつの在イラン支社に雇用され、お給料も頂くことができるようになりました。趣味で描いていた絵皿は、イラン人知人や児童養護施設でのチャリティーバザーで面白いように高値で売れ、やることが何もかもお金になる!という、なんというか、世界がどんどん広がる感覚を覚えました。

それはまさに、「ママは異国の土地でも楽しく力強く自分の道を切り開いてきたよ」と子どもたちに背中を見せてあげられていると思えるときでした。

【その3】選択は、愛のある、希望のある、勇気が湧くことを選びたい

イラン生活を充実させ、イランが大好きになっていった私でしたが。。。

結婚は、自分らしさを手放さなければならないもの?

「パパがいないと何もできない」という母親になりたくない、という想いが、わたしにをどんどん素晴らしいイラン生活に導いたことと反比例するように、夫婦間のズレは次第に大きな亀裂になっていきました。
関係改善の努力もむなしく、わたしは鳥かごの鳥になることでしか、夫婦としてやっていく道はない、と理解したとき、灯の消えかかったロウソクのように生きる意欲を失っていきました。

わたしは、どう生きたいの?

奴隷のように、ただただ言うことを聞いて生きていくなら、別れずに今もイランで暮らしていたかもしれません。

でも、いよいよ自分で思考することもままならなくなり、子どもの世話もできなくなってきたとき、フッと心に降りてくる言葉がありました。

『あなたは、どんな母親でいたいの?』

ああ、そうか。離婚して子どもを悲しませたらいけないと考えて、このまま夫と暮らすことは、自分を失うことなんだ。。。。自分を失って、心が壊れて廃人みたいな自分。。。それは、自分が在りたい母親の姿…?

わたしはどう生きたいの?
こう思った時に、わたしがイランに来た時の強い思いを思い出し、

わたしは、最後の瞬間まで、子どもたちの「母親」でいたい

あらゆる選択が許されなくなった自分が、最後にこれだけは守りたい、と願った想いでした。

もう一つ、わたしを決断に導いた、問いがありました。それは、

自分を無くして生きることにがんばるか、苦しくても希望を持てる人生を生きるためにがんばるか? どのみち頑張るしかないんだ・・・!
じゃあ、、、、どっちに頑張る?わたし?

だったら!
わたしは、苦しくても希望を持てる人生を生きるために頑張るほうを選択しよう!

葛藤の末に

人は何があったら生きていけるのだろう?
自分は・・・?

人は何を失ったら生きていけないのだろう?
自分は・・・?

様々な問いを自分に投げかけ、自分を深め、、、。
脳の血管が破れるほど、考え抜いたと思います。あの時は(笑)

それは、この仕事に結びつく、わたしの原点の一つです。

【その4】周囲に感謝。でも最後は自分…!

子どもの死から立ち上がる

イランで子どもを亡くしたとき、たくさんの方が優しく励ましてくれました。

わたしを一人にさせないように、毎日毎日、元夫の親戚や同じマンションに住むイラン人の奥様達が代わる代わる、そばにいてくれました。

そんな有難い心遣いを受けながらも、ひとりになると涙が止まらなくなり、目が腫れて腫れて、このまま目がなくなってしまうかと思うほど、悲しみに暮れる毎日でした。

どんなに昼間、誰かと明るくしていても、夜になれば否応なく襲ってくる暗闇に、自分の心も深い闇に閉ざされるようでした。

夫婦で寄り添って耐えることができる、それがひとつの救いではありましたが、最終的にその苦しみから抜け出るためには、自分自身の力で立たなければならない。最後は自分自身だと、深く知ることになりました。

イランからの決死の帰国、離婚、シングルマザーとして

当時、イランは政治不安で国は穏やかではなく、他国からの傭兵が銃をもって街角に立ち、毎日のように市民による暴動が起こっていました。また夫の許可がなければ妻は国外に出られないという国の法律がある中、元夫に覚られることなく国を出る、もし失敗したら、わたしに二度と国外に出る機会はないかもしれない、そんな緊張感の中の帰国は、本当に覚悟がいることでした。

無事に帰国、両親、友人、多くの人に助けてもらい、なんとか子どもと過ごす日々。本当にみんなのおかげで、わたしはあの時を乗り切ってこられました。でも、なかなか離婚ができない精神的なストレスと恐怖、子どもに対する100%の責任、生活を担うこと、仕事のストレス、などを最終的にどうするのかということは、どれだけ周囲の助けがあっても、最後は自分自身の気力にかかっている、と痛感せざるをえませんでした。

最後は自分の「心」がすべてを握っていて、「心」をどう保つかは、自分にしか責任が取れないからです。

周りの温かい気持ちに感謝、そして「最後は自分」という覚悟

人は、誰もが優しい温かい心を持っていると思います。わたしはたくさんの方の温かい愛と真心をいただいたことを心から感謝しています。そして辛い時は、そのような、人の気持ちに甘えてもいいと思っています。

それは例えば、骨折したときの松葉杖のようなもの。

助けという杖を使うのですが、そこには、立ちたい、歩くぞ!という自分の意志と行動が必要になります。

周囲に感謝をしつつも、「最後は自分」。。。

それが出来ることが「ジリツ(自立と自律)」しているっていうことなんじゃないかなぁ、と思っています。

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